「ほめて育てる」「叱らない子育て」の弊害

「ほめる子育てがいいって聞いた」「叱らない方が子どもが伸び伸び育つって言うから」私自身、子どもを叱るよりもほめた方が子どもに良いと信じ、その考え方をお伝えしています。この記事を読んでくださっているあなたも、恐らくは「ほめる子育て」「叱らない子育て」を実践していきたいという思いをお持ちなのではないでしょうか。一方で「ほめる子育て」「叱らない子育て」に対して反対意見があるのも事実です。今回は「叱らないと子どもの忍耐力が低下する?」「ほめて育てると『ほめられないとやらない子』になる?」と不安に思うあなたに、特に不安を煽られがちな「ネットの反対意見」への対処法を含めて、「ほめる子育て」「叱らない子育て」を続けていくための「大切な考え方」をお話しします。

 

ネットの反対意見への対処法

子どもの忍耐力・マナーの低下は「叱らない子育て」の影響?

私自身「叱らないママになれる」と謳っているだけあって、たまにこんなご意見をいただくことがあります。

「あなたのように『叱らない』親が増えているから子どものマナーが低下している」

「適切に叱られないから忍耐力がない子どもが増えているんだ」

果たしてあなたは「子どもの忍耐力・マナーの低下」と「叱られないこと」に相関関係があると思いますか。あなたの意見を今30秒で考えてみてください。

 

人は「意見を言いたくなってしまう」生き物

多分ご自分なりの意見が出てきたのではないかと思います。でもそれって本当にそうですか?あなたはこの30秒の間に何かしら根拠があるデータを探し、そのデータに基づいて客観的に意見しましたか?

これは私の生徒さんにも良くお話しするのですが、例えば「アメリカの大統領選挙についてどう思いますか?」「遺伝子組み換え技術についてどう思いますか?」と訊かれると、ほぼ全員が「詳しくは分からないですが…」と前置きしたうえで雄弁にご自分の意見を語ってくださいます。専門家でもないにも関わらず私たちは意見を述べることができるのです。これは私たちの脳には「質問されると何かしらの答えを返す」性質があるからです。つまり、あなたの周りにある「反対意見」のほとんどが、明確な根拠なく「即興で」作り出されたものであることがほとんど。その人の過去の経験、ワイドショーやネットの情報など狭い範囲の知識によって搾り出された、主観が濃縮された代物に過ぎないのです。

 

人は「匿名性」で攻撃的になる生き物

社会心理学者のフィリップ・ジンバルド―が行ったある有名な実験。実験の被験者は女性に電気ショックを与えてくださいと指示されます。女性は実は協力者で、電気ショックは与えられず苦しむ演技をするだけ。被験者はグループに分けられ、片方のグループは頭巾をかぶり、もう片方のグループは素顔のまま名札を付けてもらいました。その結果、頭巾をかぶったグループの方が、身元が分かっているグループの被験者に比べて2倍の電気ショックを与えたという結果が得られたそうです。つまり、人は「匿名性」が担保されている状況では、より攻撃的になる可能性があるということ。(これを「没個性化」と言います)特に私たちが情報を得るネットは「匿名性」が担保された場所です。名前を名乗らなくても誰かの質問に答えることができたり、誰かの意見にコメントすることが自由にできます。対面なら言えないことでも「自分が誰か分からないならいいや」といつもより大胆に、そして厳しい口調で相手に「反対意見」を述べることができる格好の場所でしょう。

 

反対意見はあくまで「意見」である

つまりネットにある反対意見の多くは「相手の主観にどっぷり浸っているうえに対面で議論する時よりも厳しい口調のもの」になりやすいということを覚えておいてください。ですから、そういう時に心の平静を保つ魔法の言葉をあなたにお伝えしたいと思います。

「意見はあくまで意見」

反対意見を言われるとまるでそれが事実のように感じてしまいますが、事実とは「犬は動物である」「人間は哺乳類である」「ここは日本だ」くらいに「誰に聞いても『そうだ』と同じ答えが返ってくるもの」です。そう考えると「叱らない子育てのせいで子どものマナーが低下している」「ほめる子育てをすると、子どもがほめられないと行動しない子になる」はあくまで意見。たまたまそう思っている人に出くわしただけの「偶然」に過ぎません。

そして、私やあなたが思っている「ほめる子育て・叱らない子育てが良い」というのもあくまで意見に過ぎません。だからそれをさも事実のように誰かに強制したり、それができていない人を批判する権利は私たちにもないのです。「自分がそうしたいからやる」ただ、それだけでいいのです。

 

 

「ほめる子育て」「叱らない子育て」の弊害とは

「ほめる」「叱らない」はあくまで「手段」である

そのうえで私の考えをお話しさせていただくと、「ほめる子育て」も「叱らない子育て」も、そして「厳しくしつける」も「手段」という点では同じだと思っています。子どもに何か「伝えたいこと」「教えたいこと」「身に付けてほしいこと」があって、それを伝える手段を「ほめる」のか「叱らない」のか「厳しくしつける」のかという違いですね。目的地があって、そこに行く方法が電車なのかバスなのかフェリーなのかの違いくらいだと思っています。だから完全に「好み」の差です。そこで「厳しくしつけられたら子どもが委縮してしまうじゃないか!」「子どもがかわいそう!」と議論したくなるところですが、これも先に述べたようにあくまで「意見」です。手段はあくまで手段であって「目的」ではない。その「手段」と「目的」を混同してしまうことこそ、私は一番の弊害だと思っています。

 

ほめていれば素晴らしい人に育つわけではない

「手段」と「目的」を混同してしまうとは、例えるなら電車かバスかフェリーかにこだわってしまって、どこに行きたいかをまるで考えていないこと。旅行に行くのであればまず「目的地」を決めますよね。「目的地」が決まればそこまでのルートが自動的に見えてきますから、利用できる手段、利用できない手段が選別できるわけです。(山に行くのにフェリーには乗れませんよね)ほめていれば、叱らなければ素晴らしい人に育つのではなく、「こういう人に育ってほしい」という思いがあるからほめる、叱らない、というのが理にかなった考え方です。ですから大切なのは「子どもにどんな風に育ってほしいか」という「目的地」の部分なのです。

 

ほめる子育て、叱らない子育ての「目的地」

ほめる、叱らない子育ての「目的地」としては例えば「自己肯定感が高い子」「何事にもチャレンジできる子」「人を愛し、愛される子」なんてものが挙げられるかもしれません。もちろん、「ほめない」「叱る」子育てをするよりは確率は上がるのではないかと思います。ただ、ガラスのコップを地面に落としたら割れるように「こうしたら、こうなる」とはっきり結果が分かればいいのですが、そうはいかないのが子育てです。まず子どもはそれぞれ違うし、お母さん×子どもの組み合わせも無限大ですし、そこに環境要因を加えたら、ほめたから、叱らなかったから絶対こうなる!とは言い切れないわけです。

だから「目的地」と言えど、そこに絶対到達できる!と過剰な期待を寄せてしまうと、お子さんはもちろん、お母さんも苦しくなってしまう。「こういう子に育ってほしいな」と目標を設定するのは構いませんが、その目標の主体はお子さんですから、お子さんが「そうなりたい」と思わなければそもそも意味がありません。ほめる子育て、叱らない子育ての「目的地」はあくまで方向性を示すだけの「方針」に近いもの。その「目的地」はお子さんの意志を尊重しながら、柔軟に変更可能なものでなくてはなりません。

 

何が弊害かなんて誰にも分からない

話をまとめますと…

・ほめる子育て、叱らない子育てはあくまで手段であり、「それをやったら絶対に子どもがこうなる」という因果関係を見つけるのは難しい。

・手段以上に大切なのは「どういう子に育ってほしいか」という方向性。そしてその方向性は子どもの意見を尊重しながら、柔軟に変更していくもの。

・ネットの意見はあくまで「意見」であり、どんなにもっともらしいものであっても大切なお子さんの人生をかけるほどの価値はない。

ということです。(これもあくまで私の意見ですが)

 

なぜ私は「ほめる子育て」「叱らない子育て」を選んだのか

最後に、私個人の思いですが、私自身「ほめる子育て」「叱らない子育て」をこれからも続けていきたいし、必要としてくださる方にお伝えしていきたいと思っています。もちろん「こんな子に育ったらいいな」という気持ちに基づくものですが、もう一つ、とても大切な理由があります。

それは「私自身が『幸せだ』と感じるから」です。子どもを厳しくしつける、子どもに感情的に怒鳴る、それも手段ではありますが、それをやっていた時の私は子育てが楽しいとは到底思えませんでしたし、ただただ自分のことが嫌いになるばかりでした。

それよりも、子どもの嬉しそうな顔を見た時の自分の喜びや、叱らないで子どもにちゃんと伝えるべきことを伝えた時の達成感、そういう「自分が嬉しい」と思うことを大切にしたい!そう思ったから「ほめる子育て」「叱らない子育て」を選びましたし、他の方にも勧めています。

お子さんが将来どうなるかも大切な視点ですが、ご自分が「幸せかどうか」「嬉しいかどうか」「楽しいかどうか」も子育ての視点としていただけるといいのではないかなと思います。

  
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